伊予史談会

伊予史談会は、大正3(1914)年に創立された郷土の歴史・地理の私立研究機関です。
地域の歴史と地理に関心がある人であれば、県内外を問わず誰でも入会することができます。
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# 森円月と子規

愛媛新聞 平成29年3月30日紙面で、岡敦司記者が執筆した連載記事「円月と子規・漱石1」にて、松山・余戸生まれの森円月と正岡子規の交遊が紹介されました。この記事は、本会の会誌「伊豫史談」356号に掲載された

 

森次太郎(円月)の青春……井上淳氏執筆

 

がベースになっています。

「伊豫史談」356号の御購入を希望される方は、史談会連絡先(yuyama@rice.ocn.ne.jp)まで、365号送付を希望する旨と御住所・お名前・電話番号をお知らせください。会誌を郵送し、誌代500円と郵送料を郵便振込(振替送料は申込者負担)にて請求させていただきます。なお残部がなくなりましたら、送付できませんのでご了承ください。(柚)

| - | - | 06:14 | category: 歴史手帳 |
# 大和の「七在所」

伊予史談会の会員の方から依頼されて、文久三年「話者家土産」という道中記を解読している。道中記では、信濃国から東海道を通り、伊勢神宮に参宮、さらに大和へ旅行する。大和に入り奈良を出ると、「是より七在所に趣く、七在所は〇如此ニしるし置」とあって、〇印が 法華寺、西大寺、正大寺、法隆寺、たゐま寺、おか寺、橘寺 の七か寺に付され、さらに「此橘寺ニて七在所参詣仕舞なり」と記している。


インターネットで調べると、安田真紀子氏の「近世の旅観と街道の変容―参宮と大和めぐり―」(「奈良史学」23号、2005年)があり、七在所について検討している。七在所が具体的にどこを指すかについては定説がないようで、安田氏は「案内記においても『七在所』の捉え方はさまざまで、『大和めぐり』を概念的に捉えたものではないだろうか。」と記述されている。この道中記にある七在所は、近世旅観研究に一石を投じることになるかもしれない。(柚) 
| - | - | 08:15 | category: 歴史手帳 |
# 買い戻された「小松藩会所日記」

「小松史談」140号(平成26年1月刊行)に、ショッキングなコラムが掲載されている。県内の歴史資料として著名な「小松藩会所日記」が、「廃藩後、各所に散転、古物商人等の手に移」っていたので、これを「蒐集保存」しているが、「町政上参考となるべき記事少なからず」認められるので、小松町に寄付したいという願書が見つかったのである。時期は大正10年(1921年)10月、願書を出した人物は森田恭平である。


 これまでも、古物商人の手に渡った古文書を一人の識者が大枚をはたいて買い戻したという話が伝えられていたそうで、それを裏付ける史料なのだそうだ。


 「小松藩会所日記」は、現在本体176冊が保存されており、北村六合光氏の著作や地元の石丸敏信氏等の史料紹介・論考によって、その内容が明らかにされつつある。最近は、地震に関する詳細な記述が注目を集め、防災に役立つ歴史資料として重要度が増している。

このように、小松藩時代の情報を現代に伝える「小松藩会所日記」は地域史研究の貴重な宝であるが、実は、散逸の危機にあった、そしてそれを救った人物が大正時代にいた、というのである。記録遺産保存の大先達・森田恭平の深い思いを受け継ぎ、小松では古文書研究会によって解読活動が続けられている。このような活動を、住民の皆さんや行政はぜひとも支援していただきたい。

また、廃藩によって貴重な記録遺産が破棄されたり散逸したのと同様、平成の大合併によって、貴重な記録遺産が破棄されたり散逸したりする危険性がある。支所となった旧市町村役場に残された行政資料(文書や図面、写真等)は、将来、貴重な地域資料となって、地域史研究の史料としてだけでなく、市民や地域の権利を保障する証拠書類としても重要なものになるだろう。行政資料の保存を確実に進めて、将来の地域住民に活用してもらえるように、様々な場で保存の重要性を訴えていきたいものだ(柚)。

 
| - | - | 16:49 | category: 歴史手帳 |
# 西予市城川文書館

『日本歴史』(日本歴史学会編集、吉川弘文館発行)第782号(20137月号)に

 

別宮博明「文書館・史料館めぐり 西予市城川文書館」

 

が掲載された。

同館は、平成11年「城川町文書館」として開館。現在は嘱託職員1名で運営している。地域に伝えられた古文書や村役場文書を収蔵。

 

全国的に著名な雑誌に、組織も建物も立派とは言えない同館が取り上げられた理由はわからないが、同館の取り組みにプラスになるよう期待したい。(柚) 
| - | - | 14:29 | category: 歴史手帳 |
# 大阪の住吉大社と伊予

大阪市史編纂所発行の『大阪の歴史』75号(2010年8月)に

小出英詞「天文二十二年八月十一日住吉大社蔵『伊豫國宇和郡一圓漁初穂致受納之由緒』という【史料紹介】が掲載されている。

 

小出氏の解説によれば、この史料は一紙の巻子で、全長181cm、幅17.1cm、未装丁であり、巻頭に「伊豫國宇和郡一圓漁初穂致受納之由緒」、巻尾に「天文廿二年癸丑年八月十一日 田中佐兵衛尉重範(花押)」とある。

史料には、天文20年(1551)に起こった、住吉社神主の後継をめぐって住吉社中と京都吉田家との争いのなかで、社人の田中重範が活躍した功績により、田中家が伊予国宇和郡の初穂受納を認められたと記すという。

 

小出氏は、鎌倉時代の「玉葉和歌集」に収載の

 

伊予の国うわの郡のうをまでも我こそはなれ世を救ふとて

 この歌は住吉の社へ賤しき男の参りて侍りけるが、魚を食したる身にてかかる所に参りたる事は悪しき事にや、と恐れ思ひてまどろみたる夢に、かくなん告げさせ給ひける

 

を紹介して、宇和郡と住吉社の関係が鎌倉時代にまでさかのぼると説明する。また、江戸時代に成立した「住吉大神宮年中行事」「松葉大記」「住吉大神宮神供三箇事」、明治3年の「神饌色目盛立之図」にも、宇和郡から住吉社への供物(贄)が記述されているという。

 

小出氏の【史料紹介】には写真版が掲載されている。見る限り、近世に筆写された写しの文書ではないかと思われるが、宇和郡と住吉大社の関係を物語るおもしろい史料である。

 

伊予と住吉大社の関係については、「すみのえ」208号(1993年)に

片山清「住吉大社石文による地方史の発見(十二)―伊豫松山藩商人と廻船業者―」という報告がある。

 

それによれば、住吉大社の「卯日(うのひ)参道」に宝永から享保にかけて41基寄進建立された石燈籠の大多数が、伊予松山の商人や廻船業者の寄進によるものだという。

本稿のなかで片山氏は、百済五良蔵、三宅勘十郎(米屋)、三宅徳蔵、大野喜兵衛・大野勘五左衛門(讃岐屋)、池田市良左衛門・池田伴蔵、木村兵九郎(布屋)、小倉和左次郎(河内屋)、湯川八郎兵衛・□尾藤兵衛など、燈籠に刻まれた松山の人名について詳細に記述する。最初の百済五良蔵は、百済魚文のゆかりの人物ではないかと片山氏は言及している。

 

小出氏の宇和郡、片山氏の松山商人、ともに住吉大社と伊予との深い関係を物語っており、今後、伊予と関西との交流の研究が進めば、新たな知見が得られるのはないだろうか(柚)。
| - | - | 18:36 | category: 歴史手帳 |
# ある宇和島藩士の江戸日記6(終)

六日晴、今朝髪月代、風邪快ニ付洗足等致候而さわりなし、役所昼時分引、夫より平八、喜平治同道ニ而他行、通り筋より堺町邊迄歩行芝居はじまる、帰り掛恵美須やへ立寄三人皆々一両程の買物をする、二階ニ而酒飯馳走ニ被成暮六ツ時帰宅、今日他行之時分米直段見聞之処今日之立相場上米両ニ弐斗九升、下米三斗位なり、尤玄米也、此頃舟間のよし、其上御当地ハ此頃一日雨がふると二三升程上るなり、自分当地着の時分よりハ両ニ付壱斗程高ふなる、両ニ二斗代の米たて珍敷事のよし、一統の難渋無理もなし、うすの中へいれて三きね程ついた米が百文ニなくなく四合いけぬ時節なり、暮より弥はなしニ参る、平八二階より下り三人からでお國ばなし、四ツ頃帰る、夫より休足

 6月6日、晴れ。今朝、髪月代をする。風邪は随分良くなったようで、足も洗ったりもしているが、問題なく快復したようである。いつもように役所の仕事は昼時分に終わり、風邪快復もあって、この日はそれから信崎平八と喜平治と一緒に外出、堺町辺りまで出かけ、芝居を観ている。
 その帰りがけには、恵美須屋に立ち寄り、三人が皆それぞれ1両程の買い物をしている。恵美須屋の二階で酒飯の御馳走になり、暮六つ時(午後6時)に藩邸に帰っている。職務上からか、外出時に米の値段を見聞したところ、今日の立相場で、上米が1両で2斗9升、下米が1両で3斗位である。これらはいずれも玄米の価格。最近は船が入ってこず、その上江戸では一日雨が降ると、米が2升3升ほど高くなる始末。筆者が江戸に着いた当初から比べると、1両につき1斗程も高くなっている。1両で2斗の相場は、既に珍しいことになってしまっている。みんなが難渋しているのも無理からぬことである。玄米を臼の中に入れて、三杵ばかりついたものでも、泣く泣く100文出して、4合も買えない時節である。
 暮れからはいつものおしゃべり。平八が二階から下りてきて、三人でお国ばなしをする。四つ(午後10時)頃に平八は帰り、就寝。


 この日は、ようやく風邪も良くなり、久しぶりに外出。外出先の堺町は当時の芝居町で、現在の中央区日本橋人形町三丁目のあたり。歌舞伎劇場・操り人形芝居・見世物などの興行に加え、芝居茶屋や各種の商店もあり、賑やかであった。天保12(1841)年の火事を機に幕府により芝居町の強制移転が行われているので、この江戸日記がそれより以前のものであることがわかる。
 芝居の帰りには、尾張町の恵美須屋に立ち寄り買い物をしている。尾張町は現在の銀座4丁目交差点付近なので、現在では銀ブラということになろうか。この恵美須屋は、呉服屋が立ち並ぶ尾張町の目貫通りにあった大店で、南八丁堀から紀伊国橋を渡って、南に少し行ったところにあった。鳥居清長が天明〜寛政頃に描いたとされる恵美須屋の図には、恵美須の絵が染められた暖簾や「呉服物安売/現金無掛値」の看板が見える。筆者と同じ宇和島藩士である三浦義陳の寛延3年の江戸日記にも登場しており、宇和島藩士がよく買い物に出かける店であったものと思われる。一定の金額以上の買い物をすると、二階で食事が振る舞われたようである。
 筆者は久々の外出をした序でに、江戸市中の米相場を調べている。江戸に到着した頃に比べて、米価はどんどん上がり、武士の生活を圧迫していることがうかがえる。わずか6日間の日記であるが、勤番武士の江戸での暮らしぶりがリアルに伝わってくる。(淳)

| - | - | 16:34 | category: 歴史手帳 |
# ある宇和島藩士の江戸日記5

五日薄曇り、朝役所無別条、昼過役所引、夫より調書物、此頃風気ニ而兎角十分ニなし、いまた髪月代不致、今日水天宮祭禮之処参詣不能、平八ハ他行、自分主従留守番下代壱人参り暮迄談話まきれニ相成、暮時分平八帰宅、土産いわしずし、酒とゝのへる、今夜大本宮祭禮御國元ハ賑々敷可有之と平八相寄噂致也、今夜信崎(シノザキ)家来金蔵方へ酒のミ客有之、色々のはなし賑々敷、平八と二人酒をのミ御國ばなしきれず、四ツ頃休足、伴のこわめしのはなしあり、浦山し浦山し

 6月5日、薄曇り。朝から役所で変わりなく仕事。昼過ぎ役所から帰っている。それから書物で調べ物。この頃風邪気味で、体調が十分でない。そのためいまだに髪月代することもできない。今日は水天宮の祭礼だが、参詣できない。信崎平八は出かけていったが、私たち主従は留守番。下代が1人来て、暮れまでおしゃべり。気がまぎれた。暮れ時分になり、平八が帰宅。いわしずしの土産を買ってきたので、酒を準備する。今夜は大本宮の祭礼なので、御国元ではにぎやかなことだろうと平八と噂話し。今夜は平八の家来金蔵の所に客が来て、酒を飲んでいる。色々な話しをしていて、とてもにぎやかである。こちらは平八と二人。酒の飲みながら、話すことは宇和島のことばかり。四ツ(午後10時)頃就寝。


 この日は水天宮の祭礼。この水天宮は、久留米藩の江戸上屋敷内にあった。普段は入ることができない江戸藩邸であるが、参拝日には一般人も中に入ることができた。水天宮の参拝日は毎月5日。久留米藩の水天宮は人気のある神様の一つで、安政4(1857)年には賽銭の上がりが約1500両にも及んだという記録も残されている。
 体調の悪い筆者は家来とともに留守番。その代わりのように外出していた信崎平八がいわしずしを買って帰ってくれている。それをつまみにこの日もおしゃべり。話す話題は、遠い故郷のことばかり。水天宮の祭礼からの連想か、国元のお祭りの話しになっている。1日も早い帰国を待ち望む勤番武士の気持ちが伝わってくる。

 

| - | - | 08:43 | category: 歴史手帳 |
# ある宇和島藩士の江戸日記4

四日雨、今日御金扶持相渡ニ付、役所殊の外繁多ざをざをごちやごちやニ而、七ツ時分役所引ケ而皆々そば取寄振舞、暮時分迄将棊さす、六ツ頃地震、ゆるはじめて青山ニぎしの沢山なる事をしる、しばらく啼やまずしてやかまし、平八と自分と市介と三人のはなしニ而自分いふ地しんの歌とりとりにいふ人あり、六ツひでりか四ツひでりかわからずといふ、自分ハ六ツひでりの心得也、市介こたへて同四ツひてりニ相違なしといふ
自分とかくおちあわずしてあらそいやまず、平八も市介も同様四ツひでり中間なり、市介専在所の者の御事をいふ、自分ざんねんさのあまりもはやあらそふべからず、われハ前かどかしまの神さまニきいたこといへバ、市介もまけぬ顔ニ而わたくしハまんごの魚ニきゝましたといふ、自分一言なし、わらいになる、夜分二階へ上りはなす、四ツ御下りて休足、せんぺいの御馳走ニなる
 右地震一件市介の返答今の大出来なり


 6月4日、雨。今日は扶持金の支給があったので、役所の仕事は殊の外忙しく、とても騒々しい。筆者は七つ時分役所から帰ると、みんなに蕎麦を取り寄せて振る舞い、暮れ時分まで将棋を指している。六つ頃に地震があった。地震があって初めて青山にぎしがたくさんいることに気づいた。しばらくぎしは啼きやまなかったので、やかましかった。
 平八と筆者と市介の三人で話していると、それぞれが言う地震の歌が食い違っている。「六ツひでりか四ツひでりか」が分からなくなったのだ。筆者は「六ツひでり」を主張している。それに対して市介は「四ツひでり」で間違いないと言う。筆者と市介はお互いに譲らない。平八はというと、「四ツひでり」に賛成している。筆者は残念さの余り、自分は以前「六ツひでり」と鹿島の神様に聞いたのだと言うと、市介も負けずに自分はまんごの魚に聞いたのだと言い返している。筆者はそれには参って、思わず吹き出している。
 夜分、二階に上がり話し込んでいる。四つ、1階に下りて寝ている。二階では煎餅を御馳走になっている。


 この日は扶持金の支給があったためか、筆者は役所から帰ると蕎麦を取り寄せ、みんなに振る舞っている。簡単に蕎麦の取り寄せができるシステムになっていたことが分かる。その後は将棋。勤番武士の生活を明治になり回想して描いた資料として、「久留米藩士江戸勤番長屋絵巻」があるが、その1枚にも部屋で将棋を指している武士が描かれている。勤番武士は外でのトラブルを避けるため、外出制限がかかっていたので、余暇の過ごし方として将棋は、かなりポピュラーだったのかもしれない。
 その後、地震があり、それをきっかけに平八と筆者と市介は地震の歌がどんなものだったのかという話しをしている。この地震の歌について調べてみると、これはおそらく次のようなものであろう。
    六つ八つ風に四つ日照り、五七の雨に九はやまい
 つまり、地震の起きた時刻によって、それが何の前触れか占えるという俗説で、四つが日照りだったか、六つが日照りであったかをめぐって、筆者は市介と言い合いになっている。しかし、こうした他愛もない話しをだらだらすることも、長い勤番生活のささやかな娯楽といえなくもない。この日はさらに二階に上がり、夜まで煎餅を食べながら話しは続いている。勤番長屋に詰め込まれた中で無為に過ごす長い時間。忙しい現代人にとってうらやましい感じもするが、勤番武士にとってはバカ話しでもしないとやりきれない時間でもあった。

| - | - | 08:31 | category: 歴史手帳 |
# ある宇和島藩士の江戸日記3

三日此頃の大雨神田川原なとニハ三四歩の出水と申位、少々風強、役所無別義、此頃雨天続ニ而船間取か、両三日米大ニ直上り玄米両ニ三斗三升位、尤下米のよし、役所買入相場ニ而ハなし、今日より酒直上り弐百五十文の酒三百ニなる、小買ハ壱合三十文のよし承り、信天(崎カ)平八今日家来へ申聞餅を買ニ遣ス処前町近邊ニハ都而不引合故不拵由也、餅米百ニ四合なり、無理もなし、めつたに餅もさけも買われず、いけぬ事也、此外おもしろからぬはなしはかり、風気十分ニなし、暮過休足


付たり内々ばなし
六月分御買入米代御金扶持金子御預り御用共ニ而七百両程受取、自分事五月朔日より引受相勤今日迄三十日余りの間ニ受払致候金高千三百両程、是でハ上ニもたまらぬ事なり、当時白搗屋一番御物入之由元〆衆はなしなり、たれもぬすみハせず致方ハなし、此頃之下説ニハ当時増上寺雲州様御預り之処御手傳参り候而役上り御跡御内様へ参り候外々御大名差向心当りも無之旨専風説致候事、実ニ左様相成候而者此上御物入相嵩六歩程の御用立ハ目の前ニあり、皆々御覚悟御覚悟

 6月3日、この日も雨。筆者は最近の大雨について、神田川原ならば洪水になる位と記している。神田川は、江戸なのでついつい「かんだがわ」と思いがちだが、この場合は宇和島城下の南を流れる「じんでんがわ」と解釈した方がよいのではなかろうか。大雨になり、故郷の川を思い浮かべているのである。
 役所は特に変わりなし。ただ、最近雨天続きのため、江戸に船が入ってくる間隔があいてしまい、この2,3日は米が大いに値上がりして、玄米で1両3斗3升位になっている。もっともこれは下米の値段。もとより役所の買入相場ではない。それにともない、酒も値上がりして、250文だった値段が300文になっている。小売りだと1合が30文と聞く。信崎平八が家来に言って、餅を買いに行かせたが、藩邸近くの町ではお金に合わないので、結局止めたとのこと。餅米は100文で4合。無理もない。めったに餅や酒を買うこともできず、いけません。面白くない話しばかりで、気分もめげる一方。起きていてもエネルギー使うだけ。寝た寝たと、暮れすぎに早くも床に就いている。


 この日の日記には、物価上昇に関連して、付録として「内々ばなし」を一つ。書かれているのは筆者の職務上の話し。担当部署では、6月分の藩の買い入れの米代と藩士の扶持米の金子として、700両を受け取っている。筆者は5月1日からこの役職となり、約1カ月勤めてきたが、その間の払った金額は1300両。こんなにお金がかかると藩もたまったものではない。今では白搗屋(米の買い入れ代か?)が一番の物入りというのが元〆衆のもっぱらの話し。誰も米を盗んだわけじゃないので、仕方ない、仕方ない。世間に人々が言うには、現在の増上寺(火番?)は、雲州様(松江藩主)が勤めてきたが、御手伝の大名も来たので、役上がりになった。その跡役は御内様(宇和島藩主)になりそうとのこと。他の大名は心当たりもないので、そうではないかというのが専らの風説。もしそのようになったら、藩にとってはこの上お金が嵩むということで、6歩程の御用立て(借上)も目の前に迫ってくる。皆様、御覚悟御覚悟。


 日記からは、江戸の消費経済に翻弄される藩士の姿が見えてくる。宇和島藩の江戸の上屋敷、麻布龍土屋敷であった場所は近年発掘調査が行われ、他藩と同様に大量の貧乏徳利が出土しており、単身赴任の寂しさをまぎらわすためか、大量の酒が消費されていたことが判明する。その酒も日記に記されるように値が上がる一方だと、かなり武士の懐に響いたことであろう。さらには、筆者の職務上の付録情報により、物価の高騰が藩士の生活のみならず、藩財政をも大きく脅かせていたことをリアルに伝えている。天明期から寛政期以降に、宇和島藩の藩財政はかなり逼迫して、藩士からの借上が相次いだことが指摘されているが、その一端がわずかな日記の記述から浮かび上がってくるのである。 

| - | - | 14:31 | category: 歴史手帳 |
# ある宇和島藩士の江戸日記2

二日雨、役所月初ニ付繁多也、九ツ時過引ケる、昼後休足、本を見る、伊勢屋茂七帷子地持参ル、下直ノ物取調置、夫ヨリ将棊をさす、夕方帰る、又休ム前野池氏小原氏他行、戻り見へる、夜分五ツ過より休足

  6月2日、雨。宇和島藩邸の役所は、月初めなので、前日と同じく忙しい。九つ(正午)過ぎに仕事を終える。帰ってから、早速本を読んでいると、伊勢屋茂七が帷子地(生絹や麻布で仕立てた、夏に着るひとえの着物の生地)をもってきたので、値段が安いものをいろいろと見せてもらっている。そのまま将棋となり、伊勢屋は夕方に帰っている。休む(就寝?)前に野池氏と小原氏が出かけていったが、戻ってきたようだ。夜五つ(午後八時)過ぎには就寝している。


 この日の日記には、伊勢屋茂七という商人が登場している。消費都市江戸での武士の暮らしを支えるために、藩邸には多くの商人が出入りしていたようだ。岩淵令治氏の研究によると、明治初年の九州佐賀の蓮池藩(約5万石)の場合、50軒ほどの商人が確認されているが、この日記に登場しているのは、藩や藩主のための品物を納入する商人ではなく、勤番武士の暮らしを支える小商いの商人かもしれない。内藤鳴雪の『鳴雪自叙伝』には、松山藩の江戸藩邸の勤番武士のもとには、貸本屋も訪れていたらしい。こうした勤番武士を相手にする商人はすっかり顔馴染みらしく、商用が終わってもすぐ帰ったりせず、筆者と将棋までしている。効率一辺倒の利潤を追い求める現代社会に対して、どこまでものどかな江戸社会である。野池氏と小原氏も不明であるが、同僚藩士と思われる。この場合の二人の他行とは、藩邸からの外出を指すのであろうか。江戸の各藩邸とも厳しい外出制限があったはずだが、銭湯などの名目で短時間の外出は可能だったようである。

| - | - | 08:38 | category: 歴史手帳 |
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